講演資料


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00.00 ラジオからケアに

 筆者が知っているある先生から聞いた話です。ことしの専攻科(短大卒業者を対象とする課程)の受験の面接で、受験生が「この研究室の課程では自由に学習させてくれるので志望している」と言うのを、それも複数の受験生から聞かされた、というのです。つまり、何名かの学生は大学に対して労働や生活やたくさんの必修の科目から解放される装置としての役割を期待している、それは大学の本来の機能ではない、というのがその先生の意見です。たいへん憤慨しておられました。
 しかし、腹を立ててみても、大学が学生に情報や技術や意識などを伝える唯一の場ではなくなりつつあるというのは確かな現実です。そのようなことは(ビデオやCDを含む)出版や放送にもできます。筆者には、大学の役割りが、伝達からそれを超えた別のことに、むしろ学生が学習をするためのケアを提供することに移っていこうとしているように思えます。その意味では、学生が期待している解放の装置であることも、大学の新しい役割りと言えるのかもしれません。
   ラジオ 役割りは伝達
学校[          
   ケア  役割りは支援
 それにしても、そのような大学は教師にとって創造性のないつまらない職場になるだろうことは事実です。それを自分の仕事として元気に受け入れられるかと聞かれるなら、確かにそれは願い下げです。こちらの言い分としては、筆者に限らず教員を生業にしているからには、自分の言動が他人の人格の形成に何らかの影響を及ぼせるという快感を期待して働いているわけですから。
 わたしたちはよく、学生が授業がおもしろくないと言うのを聞いて、授業を通じて伝達される情報の内容がおもしろくないのだと考えます。そして内容を減らしたり易しく変えたりします。しかしそうではなくて、伝達の過程がおもしろくないと言っているのかもしれません。注意しておきたいのは、このような不満は学習への意思が弱い学生に特有のものではないということです。学習への意思が強くても、それを維持していくことは、特に訓練が十分でない学部の学生にとってはたいへん困難なことです。つまり、学習のケアという機能は、学習に対して強い意欲をもつ学生を中心に、教室の全体を対象として実現していくものです。


00.01 ホールかチャージか

 同僚は、学生が大学をホールとして活かそうとしていることに腹を立てているのかもしれません。わたしは腹は立ちませんが、そんな創造のかけらもないサービスを仕事にしたくはないと思います。それより、たがいに意義のあるサービスを提供してあげたいと思っています。
 ところで、半導体の中を移動する電気には、電子が欠損していることによって生じるホールと電子が存在することによって生じるチャージとがあります。学生は、大学が、いわばホールであることを求めています。しかし、ケアはチャージによってもできるのではないでしょうか。つまり、学習への意欲を削いでしまう外界の要素を取り除いた場を提供するのではなく、学習への意欲を高める要素に満ちた場を提供することも学生に対するケアであり、この方がより有益ではないでしょうか。
   ホールとして  膠着的 沈静化 個人化 >退屈
ケア[                          
   チャージとして 想像的 活性化 社会化 >快感
 このように、学校に新しい役割りをもたせようとするとして、それは次の三つのどれかによって実現できます。
    強化する
学校を 拡張する
    解体する
 ここでは、学校を拡張するアプローチについて議論します。拡張の核心はチャージの機能の確立です。そして、その手段として情報ネットワーク、特にウェブを論じようと思います。

 なお、次の資料にも補足になる説明があります。

00 石原亘、「学習を支援する機構としての新しい情報処理教育の提案」、(私的な覚え書き、96-09-01)





モノグラフ
学生は学校を求めているか


 学校は情報の伝達の場として機能できる、という中心ドグマに対するおもしろい疑義をいくつか見かけました。一つは

01 飯吉透、"アメリカでエデュテインメントソフトが普及した訳"、MacPower、Vol. 7、No. 11、(96-11)

です。この記事では、エデュテーメントが解決として採用されるに至った合衆国の教育が抱える課題の本質を次のように分析しています。
・学校は生徒を引き寄せていない
・しかし家庭や学校に人はいないし組織も崩壊している
 もう一つは

02 司馬遼太郎、"司馬遼太郎が語る日本 松陰の松下村塾に見る[教育とは何か]"、週刊朝日、Vol.102、No.2、(97-01-17)

です。本題は松下村塾ですが、その傍題として、生活を通じて身に着いた向学心の現われの違いによって、農村と漁村とでは教師/生徒の関係が異なってくるとして、次のように論じておられます。
・農業は、1年かけてゆっくり収穫すればよく、危険も少ないのでこどもは技術を学ぶのにそれほど熱心にはならない
・漁業は、収穫が早く、さらに生命にもかかわることなのでこどもはより熱心に技術を学ぼうとする
 また、[06]と同様に、日本で都市が拡大してきたことと学校の崩壊とは関係があることを示唆する議論が展開されています。





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