講演資料


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 この節では、学校ネットワークの上で何をどう流すのか考えていくために、学習と学校について一つの考え方を提示します。
 わたしたちは、呼吸や(ふつうの)食事を、生存に対する"明白にして緊急の危険"を避けるために行なっています。しかし、学習はそのような目的のために行なわれるものではありません。学習に熱中できる学生の多くは、それが打ち込めるから熱中しているし、それほど熱心ではないけれども学習を行動している学生たちは、収入を得るための就職を勝ち取るため、という先行投資としてそれをしています。
 それどころか、学習が生存と対立することさえあり得ます。実際に、いくつかの歴史に記録されている文化の中には、学習を(完全に、または特定の階級での学習を、または特定のイデオロギに関する学習を排除するように、または、...)禁止した文化がありました。それでも学習は行なわれ続け、そのような体制を長く維持することはできませんでした。
 このように、学習という行動は少し日常から外れた面を持っています。これが、学習への意思を持続していくのを困難にしています。実際、わたしたちは、学習を中断する場合に、しばしば当面の生活の持続を言い訳にします。つまり、学校は、集団で行動する制度によって意思を日常の生活から切り離すという意味で、祭りになぞらえることができます。
 祭りに参加する人々が、それに先立って潔斉を行うのは、肉体と精神を神と向き合うのにふさわしい状態に整えるためです。本人は祭りに参加する意思はありますが、一人だけでは火の上を歩いたり顔にペーントしてサッカーの応援をしたりするまでにはその意思を持続させていくことはできません。とんでもない行動をとれるほどに高揚を維持していくことができるのは、ほかに参加している人がいて目的や意識を共有しているとか、そこが境内やスタジアムであるとか、といった制度があるからです。祭りの制度は、参加する人々の肉体や精神の状態を維持していけるように構成されています。学校もそうした学習のための制度であると考えることができます。
 次の記事は、禁煙などの本来は個人の努力に帰されてきた行動を電子ネットワークを通じてたがいにサポートしようとする、いろいろな運動とその成果を紹介しています。
saori@earthlink.net、"証明されるインターネットサポートグループの有効性"、Internet Watch、97-06-11




モノグラフ
祭りはなぜ滅びなかったか?
日常のベースとしての祭り

 祭りは、一定の期間だけとはいえ、日常を崩してしまいます。なぜそのような日常にとって危険なものが滅びてしまわなかったのか、それどころか、どんどん増えていくのか(スポーツの大試合も祭りです)考えてみます。コマーシャリズムのため、という答えは単純すぎます。なぜそのようなコマーシャリズムが成立できるのかと問いかけなくてはいけません。
 祭りが終われば、また日常が再開されます。しかし、祭りに参加したことによって人の肉体や精神の状態にいろいろなものが残ります。たとえば、御輿をかついだから神護がある、という安心とか自信です。それは本人にとって有益だし、社会を維持していくのにも必要です。
 なぜこのようなことを考えるかというと、学校や学習をなぜ行なっていいのか考えるためのなぞらえになるからです。本人や社会に対する利益という立場にとって、学習はなぜ行われるのか、なぜ学習という行動がこれまでに滅びてしまわなかったのか(見方によっては滅びつつあるのか)、という疑問の答えもここから得られるかもしれません。


モノグラフ
テンションは何によって支えられたか?

 芸術系の科目では、やはり教員のオーラによるものが大きいでしょう。この教員がおもしろいと考えていることを自分もいっしょに考えたい、という同一化を動機とする行動です。教員が実際に著名な作家であれば、学生は学習へのテンションを持続したいと考えます。芸術系の科目ではありませんが、岡田さんや立花さんは強力な場を周囲に帯びていますから、その科目に参加する学生のテンションも高く立ち上がります。ですから、教員は実績がなくてはなりたちません。しかもそれが学生に伝わるためには、何か社会とのつながりが必要です。





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97-06-14

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